近世日本の私塾における「講会の書院」

             −− 中江藤樹の構想とその意義−−

 

                        劉 h(一九九七年)

 

1、研究の意図と方法

 本論文は、近世日本の私塾に関する研究の一環として、中江藤樹の構想に始まる「講会の書院」についての実証的研究である。

 「講会の書院」は中江藤樹が晩年に提出した、新しい学校の構想である。書院という語は室町時代から、様々な意味で使用されているけれども、藤樹の場合では、「学校」を示すものとして使われている。陽明学を受容した藤樹の構想は、近世日本の私塾の新しい教学授受形態というものだけではなく、中国の「講会の書院」の精神を摂取し、学校の役割の拡大を推進しようとした、これは私塾の新しい運営形態をも示したものとして注目できる。そして、そのような「講会の書院」が、近世日本の私塾においてどのような教育史的意義を有するのか、それは本研究の一貫した問題意識である。

 遺憾なことに藤樹が「講会の書院」を明示した僅か百数十日後に世を去ったため、その構想が藤樹本人の実践によって体系的に展開されることはなかった。従って、「講会の書院」の変遷と意義は、藤樹没後の実例から立証せざるを得ない。従来の研究では、この構想が同時代の人々特に藤樹門人にどのように摂取・継承され、そして実践されていったのか、またどのように批判されたのかは、究明されてはいない。含翠堂や、懐徳堂などの学校の成立、私塾から郷塾へ転換した菅茶山の廉塾が中江藤樹が構想した「講会の書院」の影響を受けた事実はいままでの研究にはあまり提起されなかったのである。

  本論文では近世日本の私塾の発展の傾向を捉える視点を構築し、藤樹学派の代表的な私塾である藤樹書院及び京都学館を「講会の書院」の実例として取り上げ、また藤樹学派以外の講会及び「講会の書院」を取り上げ、特に私塾・学校の永続の問題と関わる経済基盤及び運営組織に注目し、近世日本私塾の発展と学校成立との関連の一側面を検討する。

 

2、論文の構成                                                                     (頁)

 序論                                                                             

  第一節 研究の意義と目的…………………………………………………………………………1

  第二節   先行研究の検討……………………………………………………………………………4

  第三節   研究の方法……………………………………………………………………………….11

 第一章 中江藤樹の構想と「講会の書院」の誕生

    第一節 「講会の書院」という表現の由来及び中江藤樹の構想…………………………… 16

   第二節 藤樹構想の形成経緯…………………………………………………………………… 26

   第三節  藤樹の実践と「家法」の成立………………………………………………………… 50

 第二章   藤樹学派における「講会の書院」

   第一節  藤樹書院の一時閉鎖と講会の転換…………………………………………………… 65

   第二節 藤樹学派(江西学派)の形成と京都学館の創建…………………………………… 73

   第三節 京都学館における教育活動と講会の展開…………………………………………… 78

   第四節 京都学館の経済基盤と運営組識……………………………………………………… 89

 第三章 藤樹学派以外の講会と「講会の書院」

  第一節 講会と講習討論・切磋琢磨の展開……………………………………………………109

  第二節 「講会」の活用と民衆教育の展開……………………………………………………124

  第三節 「講会の書院」と政治結社……………………………………………………………139

  第四節 新しい運営形態の模索…………………………………………………………………150

  結び 「講会の書院」の教育史的意義……………………………………………………………186

 付録 書院・精舎を名乗った近世日本の教育施設………………………………………………191

                      【1頁 40字×20行(縦800字)計211頁】

3、論文の概要

  「講会の書院」という表現は慶安元年(1648)藤樹易簀の百数十日前に書かれた書簡「與池田子」(模刻ある)の中でただ一回だけ使われたが、それは藤樹晩年の教育思想と、壮大な彼の理想の集大成とも言えるものであった。ここで彼の言う「書院」が日本で言うところの書院造りにおける書院と同義語ではなく、それは中国で言う書院であり、従って「講会の書院」は正しく講会の学校と読み替えられると断定することができよう。文中、「私ニ立申侯学校を書院と申侯」という説明は、極めて明確にそれを物語っている。彼が私設の学校を書院と名づけているのは、藤樹が『陽明全集』及び『王竜渓語録』を重ねて熟読してから触発され、受容したものと考えざるを得ない。門人に送った「陽明要語」及び「熟語解」における真蹟は重要な証明であった。

 士農工商の学習意欲の高まりと道徳修養の需要を予想し、新しい社会の安定的な秩序と人間関係を図り、藤樹が構想した書院は、人々の生涯にわたり、いつでも希望する時期に「自由自在」な学習ができ、師友との講習討論を活発に展開させ、また独立の校舎を有する学校であった。学校は人材の育成だけでなく、学問の研究、学術の交流、社会教化をも機能する教育・研究施設であった。講会が学校の機能を拡大する方法であった。この書院での講会が、師友の個別交流や塾内の学習討論会と異なる点の一つは、講会への参加者が藤樹の塾における師友だけに限らず、誰でもいつでも参加できることにある。その集会は時には定期、時には不定期に開催され、会期も一日、或いは数日など必要に応じたものであったという。陽明学を受容した後の藤樹の教学授受には、講釈のほかに講習討論の方法が導入され、さらに中国の講会方式を参考して、「心学の友」・「豪傑の友」を集めた「蓬莱の会」なるものも主催していた。講習討論・切磋琢磨という講会或いは「会座」は後に藤樹の「家法」として藤樹学派に継承されていったのである。

 晩年の藤樹は『翁問答』での「頗孝字を播弄す」ことを反省をしてきたため、「我学ヲ講ズル所、国土ノタメニ永久万壽ヲ祈るがゴト」き抱負を持った社会改造家であった。藤樹が構想した講会は「至当の公論」を求める学者の集会と「世道重任」を担う「豪傑の士」の集会である。従って講会は地域の制限を超えて、「斯文ノ興起ヲ以テ己任トス」る天下の同志を有機的に連合しうる、ある種の政治的な連帯組織であった。書院はそうした人々の組織の活動の会所であり、それは学派の発展・永続を願うものの基地でもあった。このような人間的な紐帯を基盤とする、藤樹が構想した「講会の書院」は彼が帰郷以後開いた塾と異なって、師の生死にかかわらず、むしろ同志の共同維持と運営に依存する永続の学校として存立し、この故にこの学校は個人の所有になる家財的存在を離れ、共有の公共的財産としての性質の強いものであった。藤樹はまた、日本全土を視野に入れて、京都を中心としての学校を創設する意欲を持っていたのである。(以上第一章)

  藤樹没後に、「豪傑の士」を中心とした講会は幕府の弾圧及び熊沢蕃山の失脚によって致命的な挫折を受けた。藤樹没後の藤樹書院は一時期に閉鎖されてきたが、藤樹の遺言によって同志に維持されており、学校としての機能が漸く失われてしまったため、地域の有志者の会所として、またなおも藤樹の偉業を慕う人々の参謁場所へと変容していったのである。淵岡山は同志の協力によって延宝二年(1674)に京都学館を創設した。京都学館は藤樹が京都に学校を創設しようとして果たせなかった悲願を実現させたものであり、藤樹未了の事業を継承し、その志を果たそうとするものであった。「扇子の要の如く」京都学館は二十四諸国の、数千人の藤樹学派の総本山として、教育の場所と研修の会所となり、爾後百有余年にわたって存続しつづけたのである。

  京都学館の運営にかかれる経済基盤は、主として藤樹を崇拝し、講会によって連帯された同志の援助に依存しており、従って必然的に同志はその運営維持の責任を担うこととなっていた。こうした運営の形態は、学校の永続が個人の財に依存するものではなく、むしろその意味では世襲的相続の慣習の絆から脱皮し、集団による共同経営方式へ転化の可能性は藤樹書院及び京都学館に潜在させていたと言いえる。例えば、京都学館の屋敷の所有権について、淵岡山の息子が「永々為学問所」という保証を提示し、従って各地の同志達もその経済的支援の義務を担っていたという事実がそれを示していた。学館の運営及び館主の人選が衆議に以て評定される制度は淵岡山の没後から形成されてきたものである。(以上第二章)

 「講会の書院」は統一的な教育制度やそれに対応する官学制度が不備、未成熟であった当時の社会環境の下で、いわば新しいモデルとして創建されたものであった。中江藤樹は師友の講習討論・切磋琢磨の方式を儒学の教学授受に先んじて導入し、読書聴講の「学習」形態に対する観念の更新を意図するものであったのである。講会の政治結社の傾向が幕藩体制に早期に撲滅されてきたため、後の講会の重心が主に学術交流、民衆教育及び社会教化に傾斜してきた。講会の共同学習は藤樹学派・懐徳堂・石門心学などに活用されて、成人教育の重要な方式になってきた。含翠堂、懐徳堂の成立は三輪執斎の斡旋で藤樹門人の講会・学校との連帯関係があって、彼らの講会の影響を受けた事実があった。「講会の書院」は郷学建設、民衆教育の流れと融和されるようになった。経済基盤の確立、運営組織の充実、教師後任者の招聘が民営学校の重大な課題になった。(以上第三章)

 

  4、今後の研究課題

 この考察によって明らかになった点は、以下の四点である。第一は中江藤樹の「講会の書院」が階層・地域の制限を超克し、私塾の運営形態を超克した恒久的な公共の学校を目指した壮大の構想であった。京都を中心とし、各地域の講会の書院を連結する組織的な学校の構想及び中江藤樹の門人によった展開は近世日本の教育史では新しい学校運営・永続の形態であった。「講会の書院」は個人の私塾(家塾)が共営の恒久的な学校へと転換する行き方を示した。第二は講会の共同学習がそれを支えていた同志の教育熱心を激発して、共立学校の成立へ民間活力の導入の条件を与えてきた。これは含翠堂、懐徳堂の成立から見られてきたものである。第三は私塾の不安定の状況、塾舎と家宅との混在性、父子相伝の慣習は学問研究の発展及び士農工商の学習意欲の高まりを満足させることができなかったため、恒久的な公共の学校の成立が時代発展の必然趨勢であった。講会の書院は私塾の個人運営が地域・集団の共営の方向へと転換する傾向と相応しい学校運営の類型の一つであった。第四は学校の永続における経済基盤の確立のために、学校の公共化が重要な前提であった。幕藩の財政援助及び地域民衆の参加も不可欠な重要な条件であった。

  これらのことから、今後になすべき研究課題は、近世日本私塾の成立及び発展、近世私塾の運営の全体像にわたって掘り下げる必要となると思われる。

 

5、主要参考文献

  『日本陽明学派の研究--藤樹学派の思想とその資料--』木村光徳 編著  明徳出版社1986年。

  『藤樹書院文献調査報告書』竹下喜久男 編、滋賀県安曇川町教育委員会1993年。

  『平野含翠堂史料』、梅渓昇・脇田修 編著、清文堂1973年。

  『懐徳堂旧記』、懐徳堂堂友会1935年。

 武田勘治 『近世日本・学習方法の研究』、講談社1969年。

  石川謙   『近世教育における近代化的傾向ーー会津藩を例としてーー』、講談社1966年。

  海原徹    『近世私塾の研究』、思文閣出版1983年。

 多田建次    『日本近代学校成立史の研究ーー廃藩置県前後における福沢諭吉をめぐる地方の教育動向ーー』、玉川大学出版部一九八八年。

 丁鋼・劉h 『書院と中国文化』、上海教育出版社1992年。

 高野良一 「『第三種郷学』(含翠堂)における公共化の可能性とその制約条件」、『京都大学教育学部紀要』二十六号、1980年。

 木村政伸 「唐津藩における私塾教育の研究」、『日本の教育史学』第38集(1995)。