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付録一 書院・精舎を名乗った近世日本の教育施設

岩手

    志村退蔵(不詳) 仙台藩士。天保六年(一八三五)東磐井郡大原村十六で琢成書院を開業し、嘉永五年(一八五二)廃業。男二三〇人、女三〇人、朱子学の漢籍を教授した。【参】『岩手県教育史資料』第一集。

 金斉輔(不詳) 平賀氏家臣。志村退蔵門人。嘉永五年(一八五二)から明治五年まで東磐井郡大原村川内で岳麓書院を開いた。【参】『岩手県教育史資料』第一集。

 

宮城

   桜田虎門(一七七四〜一八三九) 仙台藩藩士の次男。寛政八年(一七九六)、本藩名籍の削けを自らに要請し、江戸に服部栗斎らに師事し、麹溪書院に泊った。翌年、大衛騎将藤堂氏の招きによって、虎門の藤堂邸に移り、其の家臣と僚属を教授した。寛政十二年、服部栗斎の遺託及び同門の諸子の要請で、林祭酒の命令を受け、麹溪書院の助講となった。文化四年(一八〇七)藩学の儒員となり、同七年、江戸藩邸での順造館の建設を促成し、士庶を訓導した。八年、藩学の学頭大槻平泉と分岐があって、藩命によって病気で休暇させられた。「別営一宇」、教学書院を開設した。文政九年(一八二六)復職されたが、すぐに病休。天保二年(一八三一)、門人の共同出資によって、教学書院を再開した。【参】桜田虎門『鼓缶子文草』。

 大島彦集(不詳)  藩士、桜田虎門(一七七四〜一八三九)に師事し、祖蔭によって藩儒となった。自邸で心学書院を開いた。【参】桜田虎門『鼓缶子文草』

 太田盛(不詳) 士、慶応年間仙台藩で典学書院を開き、漢学と筆道を教授した。【参】『日本教育史資料』(以下『資料』と簡略)八、六三四頁。

 油井太仲(不詳) 士、天保元年(一八三〇)仙台藩で牧山書院を開き、漢学と筆道を教授した。生徒の中には女性が一六人。【参】『資料』八、六三四頁。

  

東京

   三輪執斎(一六六九〜一七七四) 享保十一年(一七二六)江戸下谷に明倫精舎(亦称明倫堂)を建て、享保十七年(一七三二)精舎を四男の家に移し、元文二年 (一七三七)六十九歳  明倫堂を閉ざして家が京都に移住した。遺言で門人川田雄琴は明倫堂などを「吉田丸にて積廻し、大洲へ建し」て、大洲止善書院明倫堂を創建した。【参】『執斎先生雑著』、『日本陽明学派の研究ーー藤樹学派の思想とその史料ーー』、

    佐久間象山(一八一一〜一八六四)藩士の子。天保十年(一八三九)江戸神田お玉池に象山書院(五柳精舎)を開いた。【参】『近世私塾の研究』、二七六頁。

 宮崎誠(不詳) 士、嘉永五年(一八五二)江戸で明霞書院を開いた。明治十年廃業。【参】『資料』八、一五八頁。

 嶋田重礼(不詳)士。明治四年(一八七一)練塀町で双桂精舎を開いた。【参】『資料』八、一六〇頁。

 

新潟

 小沢孱守(不詳) 浪人、天保八年から安政四年まで長岡藩で謙待書院を開設した。【参】『資料』八、三六八頁。

 

三重

 南川蒋山(一七七一〜一八三三) 菰野藩藩儒の長男。享和年間、京都遊学して帰郷した後、父に代わって藩の子弟を教育した。藩主土方義苗、蒋山に土地と資を与えて麗沢書院を設立させた。【参】『近世藩校における学統学派の研究』、七三二頁。

 

滋賀

 中江藤樹(一六〇八〜一六四八)士。慶安元年(一六四八)に「学校」という書院を開いた。【参】『藤樹先生全集』。

 

京都

淵岡山(一六一七〜一六八六)中江藤樹の門人。藤樹の遺志を継いで、講会によって組織された同志の経済援助及び寄付を受けたから、大名の屋敷跡を購入し、延宝二年(一六七四)京都に、「諸生ヲ招キ学ヲ講ジケレバ、同志モ多ク集会アリ」31)という京都学館を開設した。淵岡山は「私ニ建ヲ書院ト云、公ケニ建ルヲ講堂トイヘリ。此講堂書院ニ而テハ、先儒ヲ拜シ、或講習討論読書ノ堂也」32)といい、京都学館を「私建」の「書院」ないし「学問所」として承認している。【参】淵岡山『岡山先生書翰』(写本)、国立公文書図書館蔵。

 伊藤仁斎(一六二七〜一七〇五)寛文元年(一六六一)同志会に基づいて塾を開いた。常に古義堂といわれたが、伊藤東涯が輯した元禄八年(一六九五)、九年の「制義録」の表題では「古義書院私試経義乙亥新藁」という文字があった。また享保十四年の「家乗」には「古義書院修造料」における収帖があった。「家乗」享保十四年八月の条の後に、改造料の寄付者へ塾生の出した次の如き請取文を載せている「収貼 (この文だけ門人の筆をはりつけている)一 金若干 右為古義書院修造料。幸蒙恵投、謹此収尊古学之遺風、新講道之精舎。凡蕨同盟謁勝い。乃立収貼以為後鬢者。享保十四已壬月日 都講 木村名――安原――奥田――某契文」。近藤文隆は「書東涯漫筆後」(文政二年)で「予欽堀川之学久矣、客歳遊京都訪伊藤東峰于古義書院、」【参】加藤仁平『伊藤仁斎の学問と教育』、二十、一三一頁。

 木下順庵(一六二一〜一六九八)京都の東山に麗沢書院を開く。【参】『京都府教育史』、一〇三頁。

三宅尚斎(一六六二〜一七四一)士。白鹿洞書院の再興を典拠として、菅野兼山・中井甃庵の「創書院以教人」ということを再認識し、享保十七年(一七三二)京都に培根・達支堂という「義学」を創建した。ある友人は堂に関わる問いかけをしたが、三宅尚斎は「其堂之庵與斎、皆書院之類也。古人已多、何憚之有。培根達枝之号、意本於大小之教、而不曰小学大学者憚上也。学之為学、不外於此二者、則亦何必傷於此名」と答えた。また三宅尚斎は培根・達支堂で生徒の身分・年齢・才能に従って、分科教育と等級制を導入、それについて、彼は「白鹿洞書院テ大小学分チ教ヘラルテモナシ」と述べ、小学を軽忽に付していた中国書院の問題をも指摘している。【参】三宅尚斎「答疑難書堂説」、『日本道学淵源録』巻四など。

畑柳安(一七二一〜一八〇四)天明元年、法印に叙し、医学院の号を賜れた。天明三年「営造書院、広納生徒」、医学院を創建した。【参】『医学院規範』、『皇朝名医伝』など。

新宮涼亭(一七八七〜一八五四) 医者。お金を出し、幾つの藩主の援助を受け、天保十年(一八三九)順正書院を開き、学田及び基金を置き、来学者を無償に入学させた。【参】『京都の医学史』、七三〇頁。

 

大坂

 村田季武(一七三〇〜一七九〇)豪農出身、明和五年(一七六八)、高槻藩の島下郡泉原村に移り、盈科書院を開き、新田の開発を通じて塾の維持経費を得た。【参】『大阪府史』第六巻、一四五頁。

  藤田東田/亥(一七九四〜一八六四)文政八年に大坂で泊園書院を開いた。【参】『大阪府史』第六巻、七三五頁。

 高木熊三郎(不詳) 平民、嘉永元年(一八四八)大坂で歳寒書院を開いた。明治元年廃業。【参】『資料』八、二二四頁。

  小川勘左衛門(不詳)士、万延元年(一八六〇)大坂で観山庭書院を開いた。男女生徒に読写算を教授した。【参】『資料』八、二二六頁。

 

兵庫

  池田草庵(一八一三〜一八七八)農家の子。弘化四年(一八四七)但馬に青渓書院を新築した。【参】『近世後期儒家集』、五六三頁。

 玉田黙斎(不詳)安永年間、龍野藩印南郡で虎渓書院を開いた。【参】『兵庫県教育史ーー藩学・郷学・私塾・寺子屋篇』、九八頁。

 習田篤(一八二七〜一九〇五)商人の子。小島省斎、藤沢東田/亥等に従学した。文久年間帰郷して、朝来郡で虎渓書院を開いた。【参】『兵庫県教育史ーー藩学・郷学・私塾・寺子屋篇』、三五一頁。

 八木郁次(不詳)平民。元治元年(一八六四)龍野藩印南郡大塩村の山本久左衛門に招聘され、大潮書院院主となった。山本久左衛門は塾舎の建設費及び院長の生計費を負担した。明治以後思斎塾と改称した。【参】『兵庫県教育史ーー藩学・郷学・私塾・寺子屋篇』、九八頁。

 

岡山

 万波俊休(不詳)享保十七年(一七三二)岡山藩で微響書院を開き、明和年中儒臣となった。子孫が明治まで家職と書院を継いだ。【参】『学派』、一一七八頁、『資料』九、八一頁。

 

広島県

   木村雅寿(一七九一〜一八三七)医者長男、年十五、菅茶山に就学し、京都で医を勉強して府中に帰省した後、医を業とする。天保二年(一八三一)、屋後閑地に学半書院を建て、傍ら郷中子弟を教育する。【参】『事実文編』巻六十五

 

山口

 廣井良国(不詳) 士、安政五年(一八五八)清末藩で柳溪精舎を開いた。元治元年(一八六四)廃業。【参】『資料』九、一七二頁。

 

香川

  林良斎(一八〇七〜一八四九)多度津藩家老の三男。若くして家老となったが、後に長兄の子を養子としてこれに職を継がせ、専ら静養と講学に勤しんだ。弘化三年(一八四六)諸友の助けを得て「義塾」という弘浜書院を造った。【参】『近世後期儒家集』、五六六頁。

 

高知

 野中兼山(一六一五〜一六六三)藩士。後に土佐藩執政となった。精舎を設立し、公務の余暇に士を教育した。【参】大高坂芝山『南学伝』。

 奥宮慥斎(一八一一〜一八七七)土佐藩藩士の子。佐藤一斎に就いて陽明学を学び、帰国して蓮池書院を開いた。後藩校教授となった。【参】『高知県の教育史』、二〇六頁。

 

福岡

 松木大弐(不詳)青柳種信、本居太平に学び、帰郷して夜須郡弥永村に萩の舎(竹亭書院)を開き、儒学と国学を教授した。毎月五、六回の夜会を主催した。【参】『福岡県教育史』、一一八頁。

 横地春斎(不詳) 士、安政三年(一八五六)から明治まで柳川藩で龍山書院を開き、漢学と兵学を教授した。【参】『資料』九、三一〇頁。

 

佐賀

 谷口中秋(不詳) 浪人、嘉永二年(一八四九)佐賀藩で髻山書院を開き、漢学と筆道を教授した。【参】『資料』八、三五三頁。

 

長崎

 向井元升(一六〇九〜一六七七)医儒。 正保四年(一六四七)で長崎奉行に聖堂の設置を建議し、聖堂(立山書院、銭渓書院の称があった)の講師を自任し、慶安年間から万治元年(一六五八)まで長崎で輔仁堂を開設し、漢学を教授した。【参】『長崎県教育文化史』。

 楠本碩水(一八三二〜一九一六)藩校教官。同志及び有志者の協力で文久三年(一八六三)七月に平戸藩で「同志会集講学」の桜渓書院を開いた。明治三年(一八七〇)廃藩と共に書院が閉鎖された。兄の楠本端山(一八二八〜一八八三)が明治十三年(一八八一)に針尾島で同志及び旧藩主の寄付によって鳳鳴書院を開き、碩水が桜渓書院の旧生徒を率いで育英に従った。また碩水と中国の詁経精舎の院長兪木/越(一八二一〜一九〇七)との文通があった。【参】『碩水先生日記』、『碩水先生遺書』。

 須藤庄九郎(不詳) 士、幕末明治初平戸藩江上村で靜脩書院を開いた。【参】『資料』八、三五二頁。

 

大分

 帆足万里(一七七八〜一八五二) 日出藩家臣の三子。家老の職を致仕した後、天保十三年(一八四二)西庵精舎を開いた。【参】『近世後期儒家集』、五六六頁。

 佐藤龍之進(不詳) 医者、天保八年(一八三七)延岡藩で大道書院を開き、漢学と習字を教授した。【参】『資料』九、三二〇頁。

  伊藤松太郎(不詳) 士、幕末期から明治五年まで日出藩で函海精舎を開設した。読書と算術を教授した。【参】『資料』九、三二〇頁。

 

藩校

 温古堂(成徳書院) 佐倉藩二代藩主堀田正順が寛政四年(一七九二)に温古堂を設立し、五代藩主が天保七年(一八三六)それを城下大手前に移転した後、成徳書院と改称した。【参】『近世藩校における学統学派の研究』、三三二頁。

 求道館(造士書院) 館林藩主秋元志朝が弘化四年(一八四七)に求道館を設立し、安政四年(一八五七)に学制を改革し、造士書院と改称した。【参】『近世藩校における学統学派の研究』、三一五頁。

 徳造書院 掛川藩二代藩主太田質愛は享和二年(一八〇三)に創立した。又名稽古所、北門書院。【参】『近世藩校における学統学派の研究』、五八八頁、『日本庶民教育史』、三三八頁。

 止善書院明倫堂  享保十七年(一七三二)川田雄琴が師の三輪執斎の推薦で大洲藩の儒官となった後、江戸での三輪執斎の明倫堂の屋根瓦から祭器・机に至るまで大洲に移し、同志及び有志者の寄付によって、建築が漸く竣功した。延享四年(一七四七)藩主は止善書院明倫堂を設立した。【参】『近世藩校における学統学派の研究』、一四六一頁、『愛媛県教育史』第一巻、一一七頁。

 

郷校

 鶴山書院(東原精舎、東原庠舎) 佐賀藩多久邑主多久茂文及び家老多久安成らが元禄十二年(一六九九)に設立した。領内分校三舎があった。

 成章書院 秋田藩藩主佐竹義和が藩校明道館の支校として寛政十二年(一八〇〇)に秋田領(羽後、十二所)に設立した。

 育英書院 秋田藩藩主佐竹義和が藩校明道館の支校として寛政年間に秋田領(羽後、横手下根岸)に設立した。

 弘道書院 秋田藩藩主佐竹義和が藩校明道館の支校として寛政年間に秋田領(羽後、角館勝楽)に設立した。

 時習書院 秋田藩藩主佐竹義和が藩校明道館の支校として寛政年間に秋田領(羽後、湯沢内館)に設立した。

 崇徳書院 秋田藩藩主佐竹義和が藩校明道館の支校として寛政年間に秋田領(羽後、檜山)に設立した。

 博文書院 秋田藩藩主佐竹義和が藩校明道館の支校として寛政年間に秋田領(羽後、大館)に設立した。

 尚徳書院 秋田藩藩主佐竹義和が藩校明道館の支校として寛政年間に秋田領(羽後、下院内)に設立した。

 温古書院 文政七年(一八二四)藩校の支校として秋田領(羽後、能代)に設されてきた。

  以上【参】石川謙『日本庶民教育史』(藩学の延長としての郷学一覧)。

 

 勅典書院 秋田藩藩主は寛政年間岩崎に設立した。【参】『近世藩校における学統学派の研究』、一二七頁。

  天城邨郷校書院 設立年代不詳。設立地が岡山藩藩老池田出羽の采邑地児島郡であった。鴨井熊山(一八〇三〜一八五七)は嘉永年間に藩老池田出羽の招きに応じて儒臣となり、ここに諸生を教育した。【参】『近世藩校における学統学派の研究』、一一九三頁。

 

  古林見宜(?)「享保中、見宜有時誉、官特命開書院於神田橋門外、講医経於其中、使都下医生聴之」。【参】『杏林雑話』(慶応年間本)。

  会輔堂(会輔書院)享保八年(一七二三)、菅野兼山は幕府に借地を請って会輔堂を立てた。子の菅野勘平は三宅尚斎の培根・達支堂で従学してから、会輔堂を継いで教授した。寛政年間、大橋に住んで、「会輔書院教授」と言われている。【参】『秋雨談』『日本儒林叢書』第三巻など。

   懐徳堂(懐徳書院)享保九年(一七二四)、大坂町人が三宅石庵を迎えて協力して建てられた「我党の学問所」と「郷校」であった。享保十一年(一七二六)、三輪執斎の斡旋で幕府の公許及び敷地を得た。宝暦十四年(一七六四)、中井竹山は「懐徳書院掲示」を書いた。懐徳堂の用箋にも「懐徳書院」の文字があった。【参】中井竹山『奠陰集』など。

 

   麹渓書院 村士玉水(一七二九〜一七七六)は道の伝承のために、多くの図書を貯え、江戸小川町での塾を信古堂を名乗り、自己に兄事した服部栗斎(一七三六〜一八〇〇)に塾の永続を委託した。寛政三年(一七九一)、幕府大老松平定信の政令によって、服部栗斎は官地を借りて、運営の資金を受けたため、麹渓書院と改称した。【参】桜田虎門『鼓缶子文草』。

 

   林崎書院  元禄三年(一六九〇)、内宮文庫が林崎に移して、天明年間蓬莱尚賢らがその事業を拡大し、「欲観其蔵則許、欲就学者有館以待」、書庫、講堂、塾舎等を修築した。柴野栗山が「林崎文庫記」を書いた。北條霞亭が「林崎書院長」を勤めた。【参】『三重県教育史』、『事実文編』次編八、『事実文編』巻六十一。

   竹原書院 寛政五年(一七九三)、頼春風の創意で、竹原地域の住民が儒者塩谷道碩の旧宅を利用して、儒者頼春風を教師とし、創建された「講肄の所」であった。【参】古賀精里「題竹原書院詩巻後」、『精里全書』巻十七など。

楽群館 寛政年間備後府中村の浦上渓南、大戸直純は金を出し、「募父老建一書院、購書置田」。菅茶山は「村有学自此始」と称賛し、柴野栗山を頼んで楽群館と命名して貰った。【参】菅茶山「浦上渓南墓銘」、『事実文編』巻五六。『広島県史』など。

鳩嶺書院 文化十一年(一八一四)、石清水八幡宮神社社士森本四蔵ら八人は社務当職役人に文庫及び「郷校」を兼ねる鳩嶺書院設立願書を出した。その費用は「倡社結義」の社士の寄付などによるとしている。文政二年(一八一九)に竣功、後に山田敬直、谷村光訓が講師を勤めていた。【参】松本慎「鳩嶺書院記」、『愚山文稿』など。